Beautiful JAPAN towards 2020

宮城県:大谷海岸

Beautiful JAPAN towards 2020

宮城県:大谷海岸

Beautiful JAPAN towards 2020

2017年6月16日

[宮城県気仙沼市]
一人の女性教師からはじまった、フェンシングの歴史

宮城県気仙沼市は、ビューティフルジャパンでも取り上げたように、フェンシングが盛んです。
オリンピック選手、そしてメダリストも輩出しています。なぜ、この土地にフェンシングが根付いたのでしょうか。

今回は、気仙沼を訪ね、この地域でのフェンシングがどんな歴史をたどったのか、レポートします。

漁港のすぐそばで、私たちを出迎えてくれたのは、気仙沼での撮影で、お世話になった本吉町フェンシング協会の三浦永司監督と、幻のモスクワオリンピック代表選手だった千田健一さん。

なお、千田さんの息子さんは、ロンドン2012オリンピックでフェンシング男子フルーレ団体銀メダルを獲得した千田健太選手です。気仙沼で、フェンシングとともに歩んでいらした二人に、じっくりと話をうかがいました。

幻のモスクワオリンピック代表・千田健一さん。かつて気仙沼高校のフェンシング部では、息子の健太さんを指導。

まず、気仙沼のフェンシングの歴史は、どこからスタートするのでしょうか。

「気仙沼のフェンシングを語るうえで、キーマンは二人います。佐藤美代子先生と千葉卓朗先生です」 と千田さん。
このお二人は、昭和25年(1950年)に仙台で開かれた、東北初のフェンシング講習会に参加したそうです。「気仙沼のフェンシングにとって重要な出来事です」(千田さん)。

佐藤美代子さんは、昭和27年(1952年)に宮城県鼎が浦(かなえがうら)高校という女子高に教員として赴任します。
フェンシングの選手でもあった佐藤さんは、鼎が浦高校にフェンシング同好会を発足させます。ここから気仙沼のフェンシングは、はじまりました。そして、最初にフェンシングに親しんだのは、女子学生だったのです。

千田さんは、その背景を次のように語ります。
「佐藤先生には、気仙沼という隔絶された地域で、都会的なものを経験させたいとの思いがあったようです。また、体育館や校舎が狭くてもできる競技だったこともあります」
また、フェンシングという競技の根底にある「騎士道精神」が、気仙沼の女性の人格形成につながり、礼儀作法を学ぶきっかけになるとも、佐藤さんは考えたようです。

翌年、昭和28年(1953年)には、フェンシング班が発足(いまは部といいますが、当時は班と言っていたそうです)。
ここでもう一人のキーマンが登場します。仙台でのフェンシング講習会に参加していた、千葉卓朗さんです。
「仙台一高、明治大学とフェンシングで活躍した千葉卓朗先生は、地元が本吉町とういうこともあって、鼎が浦高校フェンシング班のコーチに就任しました。昭和30年のことです」(千田さん)

以降、佐藤さんと千葉さんの二人三脚による指導で、鼎が浦高校フェンシング班は快進撃を続けます。全国4連覇、5連覇を達成。オリンピック選手も送り出し、まさに気仙沼のフェンシングを一躍、全国レベルに押し上げていったのです。

鼎が浦高校は、男子校の気仙沼高校と統合され、共学の気仙沼高校に。現在もフェンシング部は活動している。

鼎が浦高校フェンシング班は、その先の世代にも影響を与えていたました。三浦監督が、こんなエピソードを教えてくれました。

「子どもたちを指導しはじめた頃、習いに来るきっかけが、『おかあさんにフェンシングを薦められた』という子どもが多かったんです」(三浦監督)

本吉町フェンシング協会の三浦永司監督。現在、小学生6人、中学生4人を育成している。

鼎が浦高校フェンシング班で、実際にフェンシングをやっていた方や、当時はできなかったけども憧れていた方が、自分たちの子にフェンシングを薦めていたそうです。これも気仙沼ならではのエピソードです。

では、現在の気仙沼のフェンシングは、どんな状況なのでしょうか。

ジュニアの指導者である三浦監督によると、子どもたちの目標は、最初から海外だそうです。小学生、中学生の全国大会でベスト8以上だと、日の丸のついたユニフォームを着て、海外遠征のチャンスが与えられます。「だから、いまの子たちは、千田健太選手と同じ、『JAPAN』をつけて海外遠征をすることを目指しているんです」(三浦監督)

小学生の頃から、「JAPAN」をつけて海外遠征を目指す。

小中学生で最初から海外を目標にしているスポーツは、あまりないように思います。
「でも、日本代表になる。気仙沼のフェンシングは、それが夢物語ではない競技なんです」と、三浦監督は言います。
たとえば、千田健太選手をはじめ、アテネと北京、ロンドンのオリンピックに出場した菅原智恵子さんなど、身近なところにオリンピック選手がいる。しかも、その選手が指導してくれることもある。
「日本代表になる」という夢をもって競技に取り組める環境が、気仙沼には整っているわけです

気仙沼のフェンシングには、数々の名選手を生み出してきた、約70年の歴史があったことがわかりました。
最後に、過去だけではなく、この先のことについても、お二人にうかがいました。

気仙沼漁港で、三浦監督と千田さん。

三浦監督は、「地元で育てて、地元でがんばって、地元から次の世代をつくりあげていきたい」と意気込みを語ってくれました。

千田さんは、東京2020オリンピックのフェンシングについて、「次の世代にいい影響を与えてくれること」を期待しているそうです。「気仙沼のフェンシングが大きくなって、被災地が活気づくことにつながれば、なおよしです」(千田さん)